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絵本と読者

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決めるということと

 絵本の読みかたについての本や記事をみるたびに、大人がそれを決めつけていいのか時々悩んでしまうことがあります。例えば大人の絵本作家は子供の想像力を最大限に働かせられるように本の形や表紙裏のページの色からフォントの大きさや色に透明度まで、細部を工夫して絵本を仕上げていきます。ですが、子供がそれに気付くことはまったくといっていいほどありません。そうした表現を表現する言葉遣いを習得していないというのもあげられますが、絵本の本質としてそうした細部をまとめて子供が「楽しめる」ものを求められている以上、単純な読解で気付くような子供がいてはいけないのです。子供は右にいくにしても左に進むとしても、他の何かで動くことはありません。自分のこだわりや意志が彼らをその方向へと動かすのです。 

 

絵本の読者とは

 そうした考えの上で読者とは何かを考えさせられることがよくあります。子供に対して作品を向けるという機会は人によっては滅多にないものですからそれを深く考えるというのはたいそう難しいことなのでしょう。

「小さな子どもは、作家が思っているほどの洞察力をいつももっているわけではない」

  結局、子供は子供なのです。作者が仕掛けた謎かけにすべて答えられる子供なんていないはずなのです。だからこそ大人を、大人でなくともティーンに向けた作品を書くというのはやはり(作者的には)恵まれているような気がします。ですが同時に、子供は優れた読者でもあると気付かされるときがあります。いえ、読者という言葉が重なってしまうのであまりよくないのですが、素晴らしい読み手として彼らは絵本を俯瞰しているのです。

 「明るい色彩が使われているために、わたしは爆弾がもっている力を理解できるようになりました。

 また、ほかの絵に比べると、この絵がどんなに深刻で重要なのかもわかりました。ほかに重要なことは、二枚の絵が、これまでのどの絵と比べても、まったくちがっているということ。さらに、二枚は絵本のちょうどまんなかにあるということです。

 わたしの結論は、この二枚の絵は絵本の中でもっとも重要なもので、すべてのことが、この二枚の絵をめぐって起きているということです」

  彼らは時に、絵本の物語を読み解くのではなく絵本として読み解くときがあります。感動がどうして自分に伝わったのか思考の渦に潜り、それを器用に見つけ出してきます。

絵本の真髄

「絵は、ことばと同じ物語を語っていますが、形がちがっています」

  その中でとても重要な点はまさしくそれでしょう。絵に添えられた文字は同じく重なっていても意味をなさないということはありえません。絵本がただの画集と落ち着かないわけがそこにあるのです。

 「この絵本の輪郭線は、とても細い、ヒゲみたいな線です。たいていの動物や虫は、すごくたくさんの線で描かれています。でもときどき、うすい色で塗ってあるところがあります。画家は、身体よりも顔のほうがいろいろなことを表現できるからです。

 たとえばマンガみたいな感じです。マンガといっても、ディズニーではなくて、新聞に出ている政治家みたいなのです。動物たちが、人間の表情をしているのです」

  私たちも普段相手の表情ひとつを読んで、話を進めたりすることがあると思います。そうした社会的な人間らしさを学ぶ場でもあるのかもしれません。でもそれは本当の読みかたとは全くちがうのでしょう。ですから時に私は絵本の読みかたとはなんだと考えてしまうのですが結局はそれが無粋であるということしか理解できないのです。