マケドニアにでもいくか

暇人になりたい

問い

問われるということ

 ある問題が自分の前に立ちふさがった時に、悩むことについておそらく自分たちは無意識の中で悩んでいるんじゃいかということが多い気がします。つまり問題に対する見方が「ガチガチにバンドで占められた物体で、その正面に備え付けられた鍵をあけることが解決だとすると…」というように決めつけがすぎているのです。そうすると大抵の和書は「問題をぶっ壊せ」だとか「違う角度から見ろ」と私たちに迫ってきますが、これまでピンときた例えはありません。やはり真剣に問題に立ち向かったとしても、やはり解決しなければいけないという気持ちが邪魔をするのです。

絶対的な問い

 直線上の線の先に配置されたのが問いだとしたら、本当は私たちはそれに向かうのではなく積極的にそれを動かすべきなのです。解決までのプロセスを洗練させるには問い自体の洗練が必要なのです。これは「違う角度から見ろ」ということとほとんど一緒なのですが大切なのは解答に目を向けるのではなく、問いのほうの角度を変えてみること、問いを問いとして考えるのではなく解答と結びつけて考えるような必要があります。またそのような中で、問いを肉付けしていくことも重要だと考えます。問いから解決までのすべてをプロセスとして捉えるということが問いそのものではないのでしょうか。

 最後に

  そういわれても実際にやれといわれてやるのは難しいんですよね。ただ一つ言えるのが、問いを動かすことは解決の変化に繋がるときもあります。ふたつの相関を見て最初に求めていた問いに対する答えというのを導き出すというのも1つの方法なのではないでしょうか。